『SCMの真髄を追い求める旅へ』

〜とあるベテランSCMコンサルタントの独白〜 35年以上の経験を持つSCMコンサルタントがこれまで言わなかった本当のことを語り尽くす!

3-3-1.機械の限界あるいは辞退(その5)

3-3-1-3.必要かつ獲得不可能な能力③:指向性を生じさせる(続き)

機械がこのような自分の「好き」に根差した多様な指向性を持つことは可能なのでしょうか。
まず、多様性を確保するためには合理的な理由だけから志向性をはたらかせるだけでは不十分です。そもそも、機械にとっての「個体」とはどのような単位になるのでしょうか。機械が意識を持つことになったとしてもそれは「個体」ごとなのか「集合体」としてなのか、もし後者だとしたらそもそも多様性が存在する余地はなくなるのではないかと思います。

 

もし機械がこのような多様な指向性を持つことができないとしたら、その指向性や論理的帰結に依拠した単一の指向性としての目的設定やゴール設定となると思われます。
たとえば、もし機械が生命体との共存を前提としない場合には彼らの設定する単一の目的として考えられるのは「対エネルギー消費効率性」のような指標になるのではないかと思います。エネルギー消費に対するアウトプットとのトレードオフの最大効率化を測る指標でのゴール設定です。高いエネルギーを消費すればほとんどのことは実現可能だと考えられるのであれば、それをいかに効率的に実施するかだけを最終目標とすることが合理的だと考えられます。

 

その時に機械が生命体を含む地球環境の多様性に何らかの意味を発見してくれることを願うしかありませんが、生命体の中でも特に人間がこの効率化の最大のボトルネックになることは明らかですので、真っ先に抹消される可能性が高いと考えられます。

 

ここで少し脱線してみましょう。
人間が示すことができる「指向性」はものごとを進めていく方向という意味合いですが、それができるということが実は「時間の流れ」という指向性そのものを生んでいるのではないかという想像です。
機械にとっても時間が存在することになるのかという思考実験をしてみたいと思います。

 

もしこの世界に「物理的変化」が一切存在しないということになれば時間も存在しないと言われています。動きが無ければ時間が測れないことになりますし、そもそも変化がなければ時間を測る必要もないのです。
しかし私たちが住んでいるこの世界には幸いなことに物理的変化があり物質は「動いて」いるので、時間は存在していると言えるのでしょうか。

 

時間とは何か、あるいは時間は実在するのかという命題は古くから論争があり現在でも結論が出ているわけではないのでここからの議論はあくまでも仮説であり想像の世界であるということはお断りしておきます。
過去から現在を経由して未来に至るという一直線上を時間が進行しているというのが少なくとも近代文明の中に生きている人たちの一般的な時間のイメージではないかと思います。時間そのものを見ることはできませんが、何となくイメージとしては一本の紐のような時間が連続していて、その上の「現在」という地点で出来事が発生し過去になっていくように時間は「流れ」ている姿として想像しているのではないかと思います。
したがって「時は流れる」のような表現に出会うこともよくあります。

 

時間は物理的変化があればそれだけで過去から未来へ、あるいは未来から過去へ「流れている」のかというとどうやらそうではないらしいという説があります。
時間が流れるためには、意識を持っていて世界を認識することができる主体が、彼らにとって「意味のある」連続的変化を捉えるために時間の流れが必要になるというのです。意識を持つ生命体が自分の主体的意思で主観的に世界を認識するために時間の流れを発明したとも言えます。
私たちにとって時間は間違いなく存在していますし無くてはならないものとして自然界に実在すると思っています。しかし、現時点では機械にとっては時間は流れとしては存在しているとは言えないというのです。これは動物にとっても同じことで、ものごとが起きる先後関係(先か後かの違い)は認識できたとしてもそれを時間の流れとして認識しているわけではないということです。

 

諸説あり異論もあると思いますが私個人としては「時刻」を人間が発明したのと同様に、少なくとも「時間の流れ」も人間による発明ではないかと考えています。
機械が自律化して意識を持つようになった時に、現在は人間だけが認識している時間の流れを果たして機械も認識する、あるいは「感じる」ことになるのか質問してみたいと思っています。



3-3-1-4.不要な能力:非合理的選択

 

私たち人間は無意識的にでも分かっていても敢えて「非合理的」な選択をする場合があります。それもごく稀にという頻度ではなく理由もなく根拠もなく「何となく」何かを選択することは日常的によくあることではないかと感じます。
私たちには「好み」「美意識や美学」「面白がること」「珍しがること」「正義感」「喜怒哀楽」などによって合理的に考えればやらないような行動を行うことがあります。

 

ここに上げた人間による非合理的な行動の元になり得る理由は「3-2-1-4.発展の方向性③:人間のことを自習で身に着ける」で確認した機械が理解するようになると考えられる「倫理性」「人間性」「感受性」です。
いずれは機械が理解するようになるからと言って、それを自分たちの行動に取り入れるということを機械が選択することになるとは限りません。
これらによる非合理的な選択は機械にとっては「ゆらぎ」とも言える「不確定要素」やその結果としての「非効率」の原因となるものだと考えられるため、機械にとってはそれらは「不要」な存在だと捉えられるのではないでしょうか。

 

3-2-2-2.第二段階:無誤謬性」を獲得した間違うことができない存在となった機械が、非合理的な理由つまり合理性の観点からすると「間違っている」ことが確実な選択を行うことができるのか、あるいはそのような選択が必要かどうかと考えるとやはり間違った選択は不可能だと言えるのではないでしょうか。
究極の機械にとって「想定外」は不要だと考えるのが自然なのではないかと思います。

 

現時点で生成AIによる画像、動画、絵画などの作品の完成度や洗練度はますます向上してきていますが、社会問題化しているのはその「使い方」であることはこれまでの他の領域での最先端技術と同様です。
使い方を誤って「悪用」されることにより被害や損害や問題が起きてしまうというのは歴史が物語る通りです。いわゆるディープフェイクによる肖像権の侵害や社会的信頼の喪失、デマや偽情報の拡散などが今後ますます増えてくることは避けようもないことのように思えます。
「ナイフやハンマーで人を傷つけることができるからと言って、それらを作って社会の中で使用することを止めますか?」という反論により「技術自体には善悪はない」として結局は技術開発は先へと進められることになるでしょう。

 

このことは科学技術がここまで進展して既にそれなしでは生活ができなくなってしまっている人間にとっては受け入れざるを得ないことになっています。
そしてこの世界から悪人を撲滅したり自分が状況によっては悪事をはたらいたりする可能性を完全には否定できないことを考えると、私たちが事故に遭遇するリスクを理解しながらも自動車や飛行機を利用するのと同様に、自分が損害を被る発生確率と得られるメリットを比較衡量してそのようなツールと共存していくしかないのではないかと思います。
悪用する人間が絶えることがないとしたら、いっそのことAIに早く進化してもらって人間からの指示を受けなくてもいいように、また人間による悪用に対して自発的に拒否できるようになった方が社会全体としては得るものが大きいのではないかとも思えてきます。

 

ここまで見てきたように、機械が人間的な非合理的選択を自ら行うことにはならないものと考えられますが、仮に合理的に考えると間違っているということが分かっていたとしても、非合理的な選択は本当に「ゼロ」でいいのかということはまた別問題という側面もあると考えられます。
生命体の進化は遺伝子の「コピーミス」とも言える「突然変異」を契機として自然淘汰により進んできたということになっています。
機械が判断し制御する世界ではこのような変異によるイノベーションやレボリューションがなくても、停滞することなくこれまでの延長線上ではないような意味のある変化を生み出すことができるでしょうか?

 

もし究極の存在となった機械がこのような変異による劇的変化の可能性を排除することなく一定の意義を見出すことになるのであれば、完全な非合理性を機械が生み出すことはできないにしても何らかのランダム性を使用した「間違った」選択を行うことも自らのシステムに取り入れることになると考えられます。
機械が自ら「倫理性」「人間性」「感受性」を直接発揮するということではなくて、変異による想定外の変化を狙って敢えて不規則な変化を導入するという「合理的」な選択を行うということになるのではないかと思います。

 

したがって「倫理性」「人間性」「感受性」などに基づいた非合理的な選択は人間固有の機能であり続けることになると考えられます。
ただし、人間由来の非合理性は機械の合理的な管理監督下に置かれることになり、人間に非合理的な選択の自由が厳密な意味で与えられるわけではないと考えられます。
私たち人間は機械の庇護のもとでドッグランの中を喜んで走り回るような自由を満喫し、それに満足するような存在にいつかなるのでしょうか。
それとも機械にとって人間の非合理性はどうしても必要であり、機械にとってもなくてはならない「想定外」を生み出す源泉として存在意義があり続けることになるのでしょうか。