3-3-3-4.第三部のまとめ:近代の終わりと次の時代の萌芽
ここまで来ると「思考実験」の旅もあと一歩です。
近代資本主義を最少の手数で完全に解体するところまで進みましょう。あと三手でチェックメイトまで持っていきましょう。
過剰は天然由来資源などの自然に対する急激かつ大規模な収奪と、それに起因する地球環境への深刻な影響の原因となっていて、現在の大きな社会課題の根本的な原因と考えられます。
過剰を抑制するためには「利益をゼロ」にすることと「ゲームの新しいKGI」を導入することの二手が有効だと考えられます。
しかし、もう一つ過剰が生み出している社会課題があります。
過剰な富の偏在による貧困と経済格差の問題です。
これに対する最後の一手は新しいKGIの「相続・譲渡の廃止」です。
これまでに得た既得権としての私有財産の所有権はさておき、資本主義のゲームの優劣を競うための新しいKGI(指標)は次の世代には相続できず、他人へ譲渡することができないというルールへの変更です。
それと同時に、現在は政府や自治体以外の個人や法人が所有権や占有権を保持している「公共財」と考えられる対象に対する権利を「所有権」から「管理権」に変更するというルールへの変更です。
管理権を持っている公共財の管理が行き届いていて適切に管理され、時にはメンテナンスや修理・修復や品質保持・改良などがなされていれば、その管理権の保持者のKGIがより多く獲得されるということで当事者のモチベーションも維持されるでしょう。
また、私有財産の対象となるようなモノ・サービス(たとえば自家用機や宇宙旅行など)は獲得したKGIを代償として「購入」することができれば同様にゲームに勝利することのモチベーション維持にも繋がるでしょう。
これにより新ルールの導入・移行期においても、既得権をたくさん持っている人たちの私有財産を剥奪する必要はなくなります。また所有権そのものを廃止する必要もありません。
管理権を持っている公共財の管理が行き届いていて適切に管理され、時にはメンテナンスや修理・修復や品質保持・改良などがなされていれば、その管理権の保持者のKGIがより多く獲得されるということで当事者のモチベーションも維持されるでしょう。
また、私有財産の対象となるようなモノ・サービス(たとえば自家用機や宇宙旅行など)は獲得したKGIを代償として「購入」することができれば同様にゲームに勝利することのモチベーション維持にも繋がるでしょう。
これにより新ルールの導入・移行期においても、既得権をたくさん持っている人たちの私有財産を剥奪する必要はなくなります。また所有権そのものを廃止する必要もありません。
これによって人間は「出自からの自由」を手に入れることができます。
BIがあれば誰もが保護者などの庇護の下を離れる時に、ゼロクリアされた状態からのスタートとなり完全な機会均等を得ることが可能になるでしょう。そこからの自分の努力と、時として幸運とによって相応の報酬を獲得することもできれば、KGIの獲得競争に参加しないという選択の自由も完全に行使できるようになるでしょう。
この三手で、正確に言うとAIの普及により自動的に実現される人件費のゼロ化を前提としたこの三手でチェックメイトつまり近代資本主義の完全な解体が実現できるのではないでしょうか。
個人的には、学生時代に袋小路に入って出口が見いだせず身動きがとれなくなってしまった「ポストモダニズム」という呪縛に対して、ここに来てやっと一つの可能的世界像を思い描けるところまで来れたのはとても嬉しい限りです。
「利益ゼロ」「ゲームの新しいKGI」「相続・譲渡の廃止」
一見するとSCMからはかなりかけ離れてしまって大風呂敷を広げすぎだと感じられる方もおられると思います。
しかし私の慣れ親しんできたSCMという道具は、発明者や改良者の思惑とは関係なくこれからの世界の変化に応じてその姿形と機能を更新し続け、それに伴って私たち人間の立ち位置や役割も変化していくということは間違いないのではないかと思います。
ここでのこれまでの検討はあくまでも私個人の貧しい想像力と創造性という限界に制約されているので、実際にその時に「どのような」姿形や機能になるのかは定かではありません。
ただ一つ言える大切なことは、現在の眼の前に見えている事象だけを見てそれに応じて反応(リアクション)しているだけというのは人間が本来持っている能力を充分に発揮しているとはいえない状態だとは考えられないでしょうか。
私たちの担っているSCMは、過去から現在の情報を使って論理的かつ科学的にこれから先に起きること起きないことを「予測」して万全の備えを行うことを本質的な役割として持っているはずです。
SCMを担う私たちにとって「想定外」などという言葉を使うことは、自分の役割と責任を放棄した恥ずべき行為だというくらいの気位で、世界の変化に対処しようとすることを自身の矜持とすべきではないかと考えています。
現時点の常識や先入観に基づいて実現する可能性やそこに至る道筋が自分には見えないからといって、思考そのものを停止することは危険なことです。
少なくとも私は「利益」や「相続」など近代資本主義の世界にどっぷりと浸りきっている私たちが当たり前のように、そもそもそのようなものが太古の昔から存在していて空気のようなものでなくてはならないものだとは考えていません。そんなはずはないのです。不都合が生じて来たら変えてしまえばいいような存在なのです。
あくまでもここまでの検討は思考実験であって、これが正しいのか、あるいは実現して欲しいと考えているとか、実現可能だと考えているわけではありません。
別のルートを通って、また別の手段であっても、現在の課題が解決されて人間が少しでも長く文明を継続させ、幸福追求の権利を享受できることを私は希望しているのです。
しかし、そのような課題解決の道を見いだせなかったり、社会的に合意できなかったりすることは、AIの登場とは関係なく人間が自身による「自滅」の道を進むということを意味します。
もう一つ、かなり可能性の高い自滅へのシナリオは、人間同士の武力紛争や戦争に起因するものでしょう。
むしろこちらの確率のほうが実現可能性が高いのではないかと思います。
人間は今だに外部に敵を作ることで内輪の結束を高め、仮に強制力を伴うとしても自分たちの行動の制約を最小化しようとし続けています。これには困ったものです。
近代資本主義は、手元に「資本」に相当する何かを持っている人たちが指数関数的に莫大な「利潤」を得ることができるというルールに基づいています。これは誰かが意図的にそのような仕組みを発明し世界中に広めていったということではなく、多くの人たちが開かれた「市場」を通じて競い合う中でたかだか数百年という短い期間において自然と形成され発達してきたルールだと言えるのではないでしょうか。
これまで見てきたように、この近代資本主義のルールは単に人間たちの大多数が合意して遵守している規則にすぎないので変えることは可能なのです。ルールを変えることによって「過剰の抑制」や「再分配の強化」は人間の手によって推し進めることが可能だと考えられます。
しかし、人間同士の武力紛争や戦争はもっと根が深く人間にとっては底なしのように捉えられる無意識の領域から湧き上がってくる衝動に支えられているような気がします。
人間同士の争いごとを起こさないようにする、あるいは決定的で最終的な争いごとに発展しないようにするためにはどうしたらいいのか?
綺麗ごとはさておき、現時点では残念ながら思いつかないですし、ここでの文脈の中に位置づけることは不可能なのではないかと考えています。
今日のAIの発展の進捗と、既に人間はディープ・ラーニングを通じて生成AIがどのようにアウトプットを出しているのかさえも分からなくなっているのですから、もうすでにAIの進展を止めることはできない地点まで来ています。
人間が自滅することはないとしても、それとは別の形で文明の終わりを迎えるシナリオも想定できるでしょう。
それは、機械から人間との共存が不要だ、あるいはリスクが大きすぎると判断されて三つの創出という役割から「解任」されるというものです。
さて、この先の空想をしても楽しくないので、このあたりで思考実験を中止して立ち止まることにしたいと思います。
ここまで特に第三部では、私自身が当事者ではなく敢えて他人事のように感情を抑えて語ってきました。その理由の一つは、私がビジネスキャリアの第4コーナーを迎えていて、現役のビジネスパーソンとしてこの先の機械化によるSCMや社会の変化の中に巻き込まれたとしても現時点で見えていることから大差はない影響範囲内に収まるだろうと予測しているということがあります。
このままギリギリ勝ち抜けられるという予測です。
でももし聞く耳を持っている人たちがいるのであれば、SCMだけに限らずこの先のビジネスキャリアにおける選択肢をより多く確保しておくためにも、私自身の経験と思索と想像力による一つの可能的物語を残しておきたいと考えたというのがこれを書いている動機だと言えます。