1-2-3.超えられない3つの障壁③「既得権の壁」:生物的原因
リチャード・ドーキンスの「利己的遺伝子論」によると、生物は遺伝子に操縦されている乗り物(ヴィークル)に過ぎず、個体の利己的あるいは利他的行動は遺伝子が種として存続していくために自己複製を行うことを目的としているとされています。
人間はそれに加えて意識や欲望や自由意志を持っていて自らの行動をより広く選択できる可能性があるという側面もあります。
損を受入れるということに立ちはだかる三つ目の壁は遺伝子に組み込まれているレベルという根深さがあります。
1-2-3-1.変化による損得の三つのパターン
1.損=得:その変化により損も得も発生しない、あるいは損と得がまったく同じ大きさ
2.損<得:その変化により得るものが失うものより大きい
3.損>得:その変化により失うものが得るものより大きい
損<得のパターンは部分最適を構成する部分に相当し、損>得のパターンが問題となる部分不最適を構成する部分に相当します。
では「損する」とはどのようなことでしょうか?
一般的な定義によると、「財産や利益を失うこと」「努力などが報われないこと」となっています。
単におカネに換算されるものを失うことだけではなく、「やって損した」などもっと幅広く実際に行った行為や持っていた権利などを失う場合にも用いることがあります。
共通することは、「既に自らが持っていた何か」がなくなった状態になる、ということではないかと思います。
そこで、私たちのSCMの検討では損をする対象を広く「既得権」として位置付けることにします。
損をするということは、「既に自らが持っていた何かを失うこと」つまり既得権を失うこととして捉えることにします。
1-2-3-2.既得権とはどのようなものか?
私たち人間を含むすべての生物のあらゆる行動は、遺伝子が個体を越えた種として存続していくためにあるということは現時点では正しいと評価されているようです。
『自己複製子は行動せず、世界を知覚せず、獲物を捕らえたり捕食者から逃走したりはしない。自己複製子は、ヴィークルがそういったことすべてをするように仕向ける。』
私はこの領域の専門家ではありませんが、一般的に言って遺伝子から種にいたるまでには以下のような階層が存在しているのではないかと思います。
遺伝子⇒細胞⇒(体内)組織⇒個体⇒群れ(集団)⇒種
遺伝子は自らは意識を持たず行動もしませんが、それぞれの階層においてヴィークルである個体に特定の行動を取るように強いているというのです。
生物としてもっとも基本的な機能としては、エネルギーの獲得という意味での光合成、動物では獲物を獲得して捕食するという行動、遺伝子を次世代に存続させるという意味での生殖活動などです。
またそれらに加えて個体や種の安全を確保するために、細胞や組織というレベルでは「免疫」というはたらき、個体や群れというレベルでは「自己防衛」という行動、個体や群れに加えて種というレベルでは「縄張り争い」や捕食などの「生存競争」という行動がそれにあたるでしょう。
さらに遺伝子の存続のためには個体を越えた群れや種の存続を優先したハチやアリに見られるような個体としては自己犠牲とも言える利他的な行動も見られます。
このような生物全体に当てはまるような遺伝子が種として存続していくための進化の他に、人間に固有の進化もあります。人間は大脳を大きくするという進化上の選択により現在の文明や文化といったものを築いてきましたが、だからといって生物界の中で最適な進化を遂げてきたのかどうかはまた別問題です。遺伝子が種としてより長く存続していくことが目的であるため、その長さが唯一究極の評価基準であるはずだからです。
人間の進化の戦略としては、大脳を大きくすることで道具を作り改良したり、言語による意思伝達を行ったり、より大きな社会を形成し維持できるような社会性を獲得したりというようなことが代表的な例でしょう。
これらの特徴により、人間は元々住んでいた環境とは異なる環境に生活圏を拡大し個体数を増やすことができるようになり、また天候や災害などの環境変化に柔軟に対応することができるという能力を獲得してきたのではないでしょうか。
人間の遺伝子が種としての人類の存続のために選択した進化の戦略を私なりに腹落ちさせるために、古典的なマズローの欲求五段階をフレームワークとしてみたのですが、以下のように考えられるのではないかと思います。
【 マズローの欲求五段階との関連図 】
「生理的欲求」:捕食、排泄、生殖
「安全の欲求」:免疫活動、自己防衛、縄張り争い
「所属や愛の欲求」:郷土意識、愛国心、派閥争い、組織防衛
「承認の欲求」:評価・評判・名声、能力獲得、創意工夫、プライド
「自己実現の欲求」:やりがい、自己肯定感
個人的には非常に興味があるのですが、これ以上脱線すると戻れなくなりそうなので本論に戻ります。
三つ目の壁として仮説設定した既得権として代表的なものはお金そのものまたはお金に換算できることです。
人間という種の存続にとって大切なものと位置付けられるものの中で、生理的欲求から承認の欲求の一部に該当するものはお金によって手に入れたりそれを保持し続けたりすることが可能なものと言えるでしょう。
お金あるいはお金に換算されることを失うということは生物としての人間にとってはかけがえのない価値を持ったものの多くを奪われることに繋がりかねないと言えるでしょう。
さらにかけがえのない価値をもつと考えられるものの中にはお金では買えない(と思われている)ものもあります。
自己実現の欲求に該当するものは、お金をいくら持っていても得られない場合もあるでしょう。
人間にとっては所属、承認、自己実現など自分自身とは何者なのかというような自己認識や自己同一性などが棄損される、傷つけられるということはお金以上の大きな意味を持つ場合もあります。
私たちのSCMの検討で、失うものを広く既得権と捉えているのは、ある個体が既に当然のこととして獲得しているこれらのもの全てが対象になり得るのではないかと考えているからなのです。
部分不最適として自分が損をするという場合には、単にお金やお金に換算される評価などを失うことに加えて、自己認識や自己同一性そのものを傷つけられることも充分にあり得ることだということです。
既得権とはそれくらい深いレベルで私たちの無意識の行動の中に刷り込まれているものなので、これらの一部が棄損されるということに対して誰もが例外なく過敏に反応し、そう簡単には受け入れることができないものなのではないでしょうか。