1-4-3.不公正な評価方法
目標値が少なくともその設定時点では妥当で達成可能なものとなってたとしても、結果の検証やそれによる評価が適正なものとなっていなければ片手落ちということになります。そもそも人間が人間に対して正しい評価を下すことなどできるのでしょうか?
その疑問に備えるためにはサプライチェーンに関連するヒトの評価において実現できる「正しさ」(公正さ)とはどこまでか、また実現できないことはどのようなことかを明らかにする必要がありそうです。
1-4-3-1.人間の評価として追求すべき「正しさ」
評価、特に人間に対する評価を行うにあたっては恐らくほぼ全員が「正しく」評価する/される「べき」だと考えているのではないかと思います。これに異論のある方はかなり偏った考えの持ち主と言ってもいいでしょう。
ではこの「正しさ」とはどのようなことを指しているのかもう少し突っ込んで考えてみましょう。
まず評価の対象となるのは「結果」ということになるでしょう。たとえば現在の人間に対する評価として最も権威のあるものの一つとされているノーベル賞では、各分野の研究成果による人類に対する貢献を評価しています。一つ例外はノーベル平和賞でこれだけは結果(アウトプットまたはアウトカム)ではない意欲や意思などの表明に対して授与される場合が一部あるように見えます。(大半は既に行ったこととしての結果に対してだと思いますが)
結果として認定できるためには、他人が認識したり理解したり価値を認めることができるような記述されたり目に見える形で表現されたものとなります。評価の対象であるこの結果が曖昧であったり抽象的なものであればあるほど評価自体もぼんやりしたものになるのは、人格や人間性、将来性や可能性などを評価することを想像すると理解できるのではないでしょうか。
ではこの結果を評価するという場面での正しさとは何かを検討するためには、評価「される」側に自分の身を置いて考えてみることがいいと思います。自分がどのように評価されたい、評価されるべきかを考えることでより自分事として身につまされた経験などを思い出しながら検討を進めることができるからです。
最も基本的、本質的なことは、自分自身の行い、考え、能力、性質など自分が持っている何ものかと、評価する側の人間が理解するそれらの間でのギャップが無い状態ではないかと思います。
例えば、一年間を振り返って年度評価を受けるにあたって、その期間で自分が行ったこととして新規の調達先を新たに開拓してかつそこから安定的に高品質なものを調達すること、またそのことに関して新規調達先の候補探しから選定、契約、指導、発注、入出荷管理、品質チェックなどをほぼすべてを一貫して自分自身が実際に担当したとします。これらのことを評価する側の人間、たとえば上司がまず同じ認識を持っている状態になっている必要があると考えるのではないかと思います。
自分自身の行い、考え、能力、性質など = 評価する側の人間が事実として認定する内容
事実の誤認があればそれによる評価の内容は自分から見ると「正しくない」と感じられるものになるのは明らかです。
この「感じられる」ということが評価の本質的な性質を表しています。つまり、評価される側としての自分の自己認識は自分の中にしか存在していなくて、評価する側としての被評価者に対する認識も評価する人間の中にしか存在していないということです。
このことから、果たして両者が等号で結びつけることができるほどに一致しているかがよく分からないということに繋がっていると言えるのではないでしょうか。お互いの中だけにしか存在していないものを両者が直接見比べることはできないのです。
したがって評価される私が評価結果を目にすると、何となく上司は自分のことを自分の思い描いている通りに把握してくれているのか不安になるということではないかと思います。
この感じを払拭するためには、評価する側とされる側の両者が可能な限りエビデンスとなる目に見えるものを共有し意思疎通をしながらこの事実 認定の内容をできるだけ一致させるように努めることしかありません。
二つ目の正しさは、人間の違いによる差異が無い状態です。これは評価する側の違いと評価される側の違いのどちらもあり得ます。
前者は評価者によって評価が甘くなったり厳しくなったりすることです。上司が変わった途端に同じ行動でも評価が違ってくることなどはよくある話ではないでしょうか。
後者はいわゆる「えこひいき」のように同じ行動でもAさんは評価されるがBさんは評価されないということで、こちらも人に対する評価の場面ではよくあることだと言えるでしょう。
これは英語でいうと「Fear(フェア)」公平性という観点です。人による違いをなくして公平に事実を認定して評価を行うことが正しさの一つだとみなされていると言えます。
評価に私情を持ち込むというのは避けなければいけないことであることは誰もが理解はしていることですが、評価する側になったときは誰もが情的な側面も併せて見てしまうというのが人間の持っている性質の一つではないかと思います。建前上は別として感情をまったく押し殺して事実関係だけで評価を下すということは実際にはかなり難しいことで、表には見えづらいことではありますが情的な側面も含んだ評価をゼロにすることはできないのではないかと思います。私自身もそのような局面ではできるだけ少なくするように努めているつもりですが、傍から見ると温情が持ち込まれていると見えてしまうこともあるでしょう。
ここでは公平という言葉を使いましたが、似て非なる言葉に「公正」と「平等」があります。辞書的な意味としてはほとんど変わりないようですが、使用されている漢字の違いによってより重きを置くニュアンスに違いがあると言えます。
公平と公正の違い:
共通して使われている「公」の意味は「ものの見方や扱い方などが偏らず正しいこと」ということのようです。
「平」と「正」の違いは、前者が「ものごとを偏らないようにすること」に重点が置かれ、後者は「不正やごまかしがなく正しいこと」に重点が置かれていると言えます。
公平と平等の違い:
共通して使われている「平」の意味は「凹凸をなくし平(たいら)にすること」と言えそうです。
「公」と「等」の違いは、前者が「ものの見方や扱い方などが偏らず正しいこと」だとすると、後者のニュアンスは「個々の状況や状態にかかわらず全員を一律同じようにする」ことに重点が置かれているという違いではないかと思います。
ここでのフェアに相当する言葉としては「公平」を使用し、この項全体の評価の正しさは「公正」という語を充てることが妥当ではないかと考えています。ここでの議論は「平等」を主張しているものではないということを確認しておきます。
三つ目は評価の対象として事実認定した内容と評価結果が妥当かどうかという問題です。
個人的な感情を極力排除したうえで評価する対象である結果について事実はどうだったのかということを把握するところまでは間違いがなかったとしても、それと評価結果が「割に合わない」とみなされる状態では評価が「正しくない」と感じられることになるでしょう。
評価する側の人間が事実として認定する内容の価値 = 評価結果の価値
日本の封建制度のもとでは、戦における功績に応じて封土を分け与えることで因果応報が成立していました。どれくらい首を取ったかによって新たに賜る土地=石高が決定されるという関係です。
どれだけ功績を上げたとしても得られる石高が少ないと、不満がつのり次の戦で寝返ったり謀反を起こしたりすることでこの二つの価値の度を越した不一致は解消されるというメカニズムが働いたものと思われます。
しかし現代の事業におけるサプライチェーン上の人間の評価という場面では、謀反も下剋上もほぼ絶望的に起こらないということになりますので、この不一致は戦国時代のようには短期的に解消されることは少ないと言えます。
解消されない場合には、モチベーションが極端に低下し人材が流出したり人知れずサボタージュが発生したりして事業や組織にとってはネガティブな影響を及ぼしかねません。